真田父子の高野山追放と幸村の九度山脱出

小山譽城先生のお話から

 

 上田高校関西同窓会の総会は9月3日(土)開催され、講演会で和歌山県の歴史にくわしい小山譽城(よしき)先生が「真田父子の高野山追放と幸村の九度山脱出」と題して講演されました。折しも大河ドラマ「真田丸」の9月11日(日)の放映では、第二次上田合戦での勝利に湧く真田陣営に関ケ原で豊臣方が敗れたとの悲報が届いたところで終わりました。次週以後のドラマの展開と小山先生のお話がちょうど重なりますので、講演の概要を紹介します。「真田丸」鑑賞の参考になれば幸いです。(石沢)

 

高野山への追放

 慶長5年(1600)9月。真田昌幸・幸村(信繁)父子は、中山道を関ケ原に向かう徳川秀忠軍3万8千を上田城で引き止めることに成功したため(第二次上田合戦)、秀忠軍は関ケ原合戦に間に合わなかった。激怒した徳川家康は合戦後、真田父子を死罪にしようとしたが、徳川方についた真田信之が、徳川重臣の本多正信や舅の本多忠勝にすがって必死の助命嘆願をしたため死罪を免れ高野山へ追放となりました。

なぜ高野山へ追放されたのでしょうか。弘法大師空海によって開かれた高野山は奥の院の手前の橋を渡ると、カメラ撮影が禁止されています。これは奥の院地下の石窟に大師が生きたまま座禅を続けておられる(入定留身)という信仰があるためです。ここはお大師さんが今も座禅を続ける聖地なのです。

このため、奥の院の近くに分骨を納めておくと、弘法大師に看とられながら安らぎを保つことができると信じられ、多くの人がここにお墓をつくるようになりました。また、高野山は保元・平治の乱以降、政争で敗れた者が余生を仏道修行に過ごすことを前提としての隠遁場所として知られていました。幸村と同時代には、北条氏直が秀吉の小田原攻めにより降伏しますが、家康の娘婿であったため助かり高野山へ蟄居となっています。

  高野山へ追放が決まった慶長5年の12月13日、昌幸は正妻(山之手殿)を連れて行かず側室を連れて行きました。幸村は妻子を同行しました。随従した家臣は池田長門、原出羽、高梨内記ら16名で、ほかに妻子を連れて行ったため、侍女や小者らも含めて総勢は80~100名くらいと推察されます。

一行は高野山の手前の細川というところで女性を泊めました。高野山は女人禁制だからです。昌幸・幸村は高野山の蓮華浄院に行きました。この寺は信州の佐久郡と小県郡を縄張りにしている寺です。佐久と小県の人たちが高野山へお参りにくるときの宿坊になっており、また真田家の旦那寺でした。しかし、高野山の冬は寒いので、その後、蓮華浄院の配慮により、麓の九度山に屋敷をかまえてここに移りました。

 

 九度山の真田庵(善名称院)はその屋敷跡といわれています。真田庵から東へ行くと偏照寺(へんじょうじ)という寺がありますが、そこまでの間の200m余に昌幸や幸村と真田家臣の屋敷があったと推測できます。「先公実録」(『九度山町史』)には、「房州様(昌幸)御宅跡を道場海東(垣内)と申し候、左衛門様(幸村)御屋敷を堂海東(垣内)と申し候」とあり、具体的な地名が書かれています。

九度山での生活

 九度山での生活は上田の真田信之からの仕送りに頼りました。また、和歌山藩からは毎年50石の援助がありました。しかし生活は苦しかったようで窮状を示す昌幸の手紙も残っています。

 日常の行動は比較的自由だったようで、「先公実録」には「九度山の浦ノ川渕上下五丁(約550m)の間は、房州様(昌幸)左衛門様(幸村)御遊山の所にして、之に依り今に至るも真田渕と唱」と、浦ノ川の渕の上下五丁はよく出かけたので真田渕と呼ばれていました。

また、「九度山御在居の間、時々和歌山中ノ棚(店)の次郎右衛門と申す者の方へ御入成られ候」とあり、昌幸は九度山から約十里離れた和歌山城下の中ノ棚という魚市場の次郎右衛門の所に時々遊びに行っています。

幸村は九度山で昌幸から「豊臣方が決起すれば私が総大将として迎えられるであろう。その時いかに戦うか」について話を聞かされていたし、弓や鉄砲の練習もしていたとされています。これらの事が、後に大阪城に入ったとき、生かされたのではないでしょうか。昌幸は慶長16年6月4日に逝去します。

 

九度山脱出

 昌幸の死から3年後の慶長19年(1614)、幸村は豊臣方から黄金200枚、銀30貫の手付金で迎えられた時、すぐに応じる返事をします。そして自分の屋敷 に仮小屋を建て、まわりの農民を集めて世話になったからと言って酒盛りをやり、皆が寝たすきに馬にのり、九度山を出たと言われています。しかし、この話はおかしい。皆が寝たすきに大勢が脱出すれば分からないはずがありません。

 別の史料では、実は皆に世話になったが豊臣方から誘いを受けたので行こうと思う。しかし皆に迷惑がかかったら悪いから、この地を去り難いと複雑な心情を吐露した。そのとき農民らから「それなら、自分の息子も甥も連れていってほしい」と言われ、その場で40人ほど集まったそうです。この史料のほうが実情に近いと思います。

 幸村は地元の人と交流していて人間関係ができていた。だから地元からも幸村と一緒に行った人がたくさんいるのです。地元の家には、幸村からもらった馬具のあぶみとか蒔絵の弁当箱、手水鉢などが残されています。そもそも監視を頼まれた和歌山藩の浅野氏が真田に同情的でした。

 幸村の九度山脱出は慶長19年の10月9日とされています。船を使って紀の川の対岸の橋本に渡り紀見峠をこえて河内に入ったとされています。また、その西側の蔵王峠を越えたのではないかとの説もあります。

 

大坂城入城

 九度山脱出以後について簡単に述べます。10月10日、幸村は息子の大助らともに大坂城に入ります。そこで幸村は一軍の将になります。真田丸はおそらく一か月ぐらいで造り、大坂城の弱点であった総堀の南を強化しました。真田丸はこれまで三日月の半円形だといわれてきましたが、実態がすこしずつ分かってきて、東西240メートル、南北280メートルのかなり大きな方形だといわれています。堀をほって柵を2階建てに作り屋根も作っているので火縄も濡れない。2階は板敷にして自由に走り回る。そして敵をひきつけて攻撃しました。大坂冬の陣の12月4日の戦いでは徳川方に甚大な被害が出ました。これで幸村の名声は一段と上がりました。

 翌慶長20年(1614)の夏の陣では、堀を埋め立てられて裸城になった大阪城から出て戦いました。5月6日の戦いで幸村は藤井寺まで出て伊達政宗とわたりあい、一旦伊達軍を押し戻して、引き返しました。翌5月7日、茶臼山に陣を敷き、南の家康本隊と戦って家康にもう一歩のところまで迫ったが、反撃にあい届かなかった。茶臼山ちかくの安居神社に戻ってきたとき、松平忠直隊家来の西尾宗次に発見され討たれて死にました。

その勇猛果敢な奮闘は敵方をも感動させ、またその話を伝え聞いた多くの人々に感銘を与え、真田日本(ひのもと)一の兵(つわもの)と称賛されました。