松尾倶楽部 とは……
1993年(平成5年)新春
高校を卒業して20年、大学の場合は十数年を経過すると、地方支社などの勤務を経験して、同期生がまた東京に戻って来る時期があります。
それはまた、仕事一途に駆け回った新人の頃と違って、専門知識を蓄え、それなりのポストにつき、社外の“勉強会"などにも顔を出しはじめる時期でもあります。
1960年代、同窓会に集まった48期の何人かが、それぞれの“専門知識"を交流することも面白いんじゃないか、と言い出しました。48期は「友人世代Jです。
上田中学に入学したのが昭和19年、終戦は2年生になって間もなくの時でした。
学制が変わって、中学4年から上田松尾高校の2年生に、結局合計6年古城の門をくぐった仲間です。時間の長さもありますが、戦中・戦後の激動期を共有し、価値観や社会体制の変化の中で、先生も頼りにならず、友人同志が互いに切磋琢磨(そういう言葉がまだ生きていました)し合う、最も“友人本位"の青春を過ごした仲間です。
早速十数人が、大手町の一角に集まりました。昼食時、ビールは出ませんでした。
二十年振りに集まった部屋は、上田時代の教室とは違うしつらえでしたが、部屋の空気は、 上田の教室と、社会・経済の動きとをないまぜにしたような、一種の緊張となごやかさを漂わせたものでした。みんな社会の変化に参画しているという自信に溢れていました。自己紹介でさえ、刺激に満ちたものでした。同期生であることを、友人であることを、再確認する機会でもありました。こうした交流を持続しようということになりました。たしか昭和44年の秋、それもまだ「暑かった頃だと、メンバーの一人は記意しています。
数回の会合の間に、もっと人勢の人に、他期の人にも参加してもらおうということになりました。
名称が「上田経済問題懇談会Jと正式につけられたのは、和46年の8月のことです。経済を主とした“勉強会"という性格を持つものでした。“世話役"もでき、講師には新聞社の論説委員とか、エコノミスト、国際通と言われる人達が登場しました。
それがさらに「松尾倶楽部Jとして組織を整えたのは1986年(昭和61年)になってのことです。先輩諸氏のアドバイスもいただき、若い人達もフレッシュな惑覚で運営に参加して来ました。出席者も拡がり、とり上げられるテーマや活動も多様化しました。 上田の卒業生が“講師"として、その知識や見聞を語るようになったのもこの頃からのことです。“勉強会"は、社交的な機能も加えた“文化人組織ーー大げさにいうと“上田文化人"の集う場となりました。
同窓会は、時の流れを一つの軸として存在します。同窓会を縦糸とすれば「松尾倶楽部」は横糸といえるかも知れません。両者が織りなす多彩な糸の布を、さらに、“横幅"の広いものにしたい、というのが私達の念願です。だれでも自由に来て、気楽に座れるジュータンのような“布"を織っていきたい、そんなことを目標としています。
松 尾 倶 楽 部
代表幹事 堀 内 惇
1.他所では聞けない貴重な、しかも内々の話を聴く
ことができる
2.親しみあえる催し物(特に新年会では)がある
3.企業見学のバス旅行で見聞を広め、さらに会員同
士の懇親が深まる
4.入会金のみ、あとは例会に参加した時の会費だけ
5.会員は上田高校同窓生、 同窓生でなくても会員
の紹介で特別会員として扱いに区別なし
6.会員の交わりは、各自が自立した個人の誇りを
持ち、相互に人格を尊重し老若男女すべて平等