松尾倶楽部発足前のことだが「これからの世の中と経済はどうなるのか…」
と気を揉みながら、少数の48期生が集まって議論をしていたのは、60年代
末のことである.僕もまだ40歳そこそこの働き盛りで、大きく変動する時代
に戸惑っていたころだ。
戦後15年、日米安全保障条約改定(いわゆる「60年安保は強行採決で成
立し、これを怒った空前の数のデモ隊が、国会議事堂を取り囲む中、警察隊と
の乱闘で東大生・樺美智子が亡くなった。そして岸内閣は総辞職する.替わっ
て「高度経済」を標榜する池田勇人首相が登場、金看板の「所得倍増政策」も
実現した。64年には東京オリンピックが開催され、東海道新幹線・首都高速
道路が営業を開始する。東京の焼け跡風景は大きな変貌を遂げた。
東京オリンピック閉幕の日、ガンに冒された池田首相が退陣して佐藤栄作長
期政権が成立。70年には、安保改定・大阪万博が実現した。さらに懸案だっ
た沖縄返還を成し遂げたが、 一方、繊維の対米輸出問題はこじれていた。
そんな中、71年に「ニクソン・ショック」に見舞われる。ニクソン米大統
領は、金とドルとの交換を一時停止し、10%の輸入課徴金を実施するなどの
「ドル防衛策」を発表した。輸出を伸ばしてきた日本にとって、まさに大ショ
ックであった。政府・日銀は東京市場を開けたままドルを買い支え、1ドル=
360円を維持しようとしたが失敗、8月28日、変動相場制に移る。東京市
場には1兆6千億円を超える大量のドルが流れ込み、これが後の狂乱相場の因
(もと)になった。
68年4月、平河町の麹町会館で48期の同期会が開かれた。
事前に一部の仲間が顔合わせの集会をしていたこともあって、この会合には大
勢の同期生が参加した。この会に上田高校同窓会関東支部(現関東同窓会)の
矢島五郎幹事長(31期、矢島鋳工(株)社長)が特別参加された。金一封も
頂戴した。その二ヶ月後、関東支部の総会が開かれ、48期生も多数参加した。
初めての参加者が多かった。この、4月と6月の参加者に「出席するように」と
声を掛けてくれたのが小木曽誠さん(48期・行政管理庁副監察官)であった。
集まった48期生には企業の中枢にいる者が多かった。同窓会
員でも矢島幹事長をはじめ、先輩幹部が殆ど企業経営者だったためか、景気や
会社運営に関する話が交わされることが多かった。
間もなく「腹を割って話せるもの同士で会をつくって、企業経営の研究や情
報の交換をしたらどうか」という要望が出た。そこで、小木曾誠さんが初回の
幹事を買って出て、「上田高校経営情報交換会」という会を発足させることに
なったのである.同窓会員の中から30名ほどが賛意を表明して会員となった。
これが、松尾倶楽部の最初の姿である。
第1回の会合から第6回例会まで、「みづほ」に集まつた時を除き、地下鉄神谷町に
近い東京農林年金会館で会合を開いていた。世話役の中心には小木曾誠さんがいたが、
「持ち回り幹事」を務めた会員は、
牧内操さん(47期・牧内会計事務所長)、牧内清さん(48期・菊川工業(株)専務
取締役)、山崎延秋さん(48期・栄光商事(株)取締役)、堀内惇(48期、明光通商(株)代表取締役)および村田寛さん(51期・AA産業経済調査会)であつた。
会合は不定期に催され、平均すれば年に一度ほどで出席者の平均は28名であった。
76年4月に小木曾さんが、四同行管の相談課長として高松に転任されたので、幹事
会は牧内操さんに代表となってもらい、今後の運営をしていくことになった。
代表幹事は「しつかりした名簿を作らなければ…」と自ら「上田高校同窓会関東支部経済問題懇談会 〈会員名簿〉という立派な会員名簿を作成された。名簿には正会員38名が収載され、全員が上田高校の同窓生であった。
元始会員38名の中の24名が今も松尾倶楽部の会員としてご健在でおられるのは誠に
嬉しいことである。
今から33年前、昭和46年の夏ごろ、小木曾誠さん(48期)から連絡があつて上田経済問題懇談会(略して経問懇)創立の話と共に世話役の役目を引き受けてほしいと頼まれた。
当時、48期の錚々たる経済人の皆さんが30人ばかり集まって経問懇創立の運びとなったのだが、発起人が48期ばかりではまずい、というので47期の私が引っ張り込まれたらしい。その頃、小木曾さんと私は同窓会の役員仲間だつたし、矢島五郎先輩(3‐期)の「王陀礼(わんだれ)会」仲間でもあつた。
創立総会は現代表幹事の堀内さんが書かれた「草創期の松尾倶楽部」にある通り昭和46年8月18日に18名が集まってスタートした。当日は坂井実雄先輩(28期)による経済講話と
矢島五郎先輩の激励の祝辞があつたりした。当時は高度経済成長期の真っ只中であり、皆若く元気いつぱいだつた。
小木曾さんに引っ張り込まれて代表世話人にさせられた私は、会員名簿の作成、保管、そして諸事連絡やらをやらされたけれど、まだ40代の遊び盛りだつたりしてそのお務めは不十分であつたと反省している。
昭和60年までは「上田経済問題懇談会」であつたが、61年から「松尾倶楽部」に名称を改め、私は役員を退いて堀内惇さんが代表幹事となつた。それからは松尾倶楽部は順調に発展して今日に至つている。
現在、松尾倶楽部の存在は上田高校同窓会活動の中でひときわ輝いている。倶楽部をここまで立派に育て、名実共に充実した運営を実現されている堀内代表幹事の手腕力量そして人間性に心から敬意を捧呈する。それと共に中心となって支えてきた48期の皆さんはじめ歴代役員の皆さんのご努力に深く感謝申し上げたい。
そして「経間懇」創立当初熱心に纏め役を務められた小木曽誠さん
のことは強く印象に残っており、懐かしい思い出と共に忘れられない人である。
代表世話人 牧内さん力作の
「経済問題懇談会 会員名簿」
昔、大層お世話になりました馬場武彦さん(54期)からの「当会の記念誌だから言い出しっぺとして一筆を」との依頼状を見ると、 一筆せざるを得ません。
私は昭和40年代の初め、同窓会では機関紙「うえだ」の広告委員を担当していましたが、広告に協力してくださった方々から「広告は協力するから何か《時代の流れを読む》式の経済の勉強会を企画して」とか、「異業種交流の花盛りと言われる今日、同窓会での異業種交流をしよう」といった要請が多々ありました。その要請に応えて企画したのが「うえだ経済問題懇談会」でした。たしか昭和46年の8月中旬大蔵省主計官丸山英人氏(36期)にご講演をして頂き、昼飯を食べながら懇談したのが初めてであったと思います。
出席された方々から「世の中のトレンドを伺い有意義であった.続いてやれ!」とまで言われました。当時は大企業でさえ「社内セミナー」なんて全くなかった時代です。そのときに、同窓会の中で経営情報交換のセミナーが開かれたのは全くユニークなことでした。私は退官してから小さなシンクタンクヘ役員として入りましたので、シンクタンクの役員や大学教授との交流が大変多か
ったのですが、「同窓会での経済セミナーなんて言ったって、人が集まって来ない」といつも?を抱かれたほどでした。それが三十余年たっても存続し、内容的にも大きく進展しています。これも全くユニークな集まりと申せましょう。
当初は講師の選定だけでも大変でした。しかし皆が協力してくれる、これもまたユニークでしたね。当時から現在主宰の堀内惇さん(48期)や村田寛さん(51期)が尽力してくださいました。いまだに幹事として省(乏くじをひかされてオカワイソウー(しかしそういう人がいないと世の中困るのですから我慢してくださいネ)。その頃の出席者が現在も相変わらず常連というのもまたユニークです。当時は47期の牧内操氏に代表を務めてもらいました。会則無し、年会費なしというのもユニークでした。私は昭和63年4月、転勤のため幹事を引かせて頂きましたが、堀内さんや村田さんの奮闘により隆々盛々と今日に至っているわけです。お二人には本当にご苦労して頂き、「ヒョーショー状」ものです。
私のように同窓会に少しでも関係した人々は皆「同窓会は松尾倶楽部が支えている」と言っています。他の同窓会の幹部諸氏ともお話するのですが、松尾倶楽部のように同窓会を支えている会はありません。これもユニークな面です。 一般にこのような会は三同で消えてしまうのですが、これが三十余年続いているのですからユニークと言うよリフシギ話ですよ。本当に幹事諸氏のご苦労の結集の成果ですね。
私は何もしていないので申し上げにくいのですが、これだけ幹事さんが献身的かつ奉仕的に動いている会も例がないでしょうね。少々変わり者でなければ松尾倶楽部の幹事さんは務まらない…とさえ思います。
また、逆に見ますと同窓会が陰ながら支援したサークルも全国に数少ないのではないでしょうか。これもある面でユニークですね。私が幹事をしていたころは、ご案内をしなくても聞きつけて同窓会の会長、副会長はどちらかが顔を出してくれました。そして「今日は赤字がいくらになっているのかね」とまでわざわざ質問してくれたものです。嬉しく思いました。「同窓会としてもお礼を申すぞ」とも言われたものです。
長期欠席していて申し上げにくいのですが、どうかこのユニークな会をさらに発展させていきましよう。松尾倶楽部に幸多かれと祈るや切。
このページから「ビッグチェンジを予見』までは、故堀内代表幹事が松尾倶楽部記念誌に寄稿された『草創期の松尾倶楽部』からの引用です。