中村仁一医師(56期)、延命医療を批判
2015年9月26日に連合会館で開催された第 157回例会では、長年、高齢者の「生き方相談」に取り組んできた 56期の中本寸仁一医師(京都の老人ホーム「同和園」付属診療所所長)が請演し、79人が参加しました。演題は「最後まで自らの人生の主人公になるために」。「医療界の綾小路きみまろ」と自称するだけあつて、舌鋒鋭く話し上手。「今の日本人は死ぬことを考えていないので、最期まで自らの人生の主人公でいることができない」と嘆き、延命医療や延命介護が主流になつている医療界の現状を批判しました。
われわれ世代には身につまされる話。講演を聞けなかつた会員のために要旨を掲載します。
私は口に毒があるので、京都では「医療界の綾小路きみまろ」 と呼ばれ、尊敬されている(笑)。喉に腫瘍があり、今順調に発育しているが、切る気がないので病院に行っていない。病気は本来自分が治すもの。よほどつらければ、つらさを軽くするために医者に行くのは構わない。ただ、病院へ行けばなんでも治るという考え方は捨てた方がいい。
今、健康寿命を伸ばそうと、いろいろな手が打たれているが、健康寿命が平均寿命に重なることはない。場合によっては、弱っても死ねない体作りをするということだから、介護期間が伸びる可能性もある。健康寿命が終わったときが人生の終わりではないので、寿命が来るまでどう生きか、そして死ぬ時期が来たら潔く死ぬことが大事だ。
寿命とは自力で物が食べられること。昭和 30年代まで、それに近い形で年寄りは死んでいった。食欲は本能だから、生きるためには食べて飲むのは当たり前。死に時が来ると腹が減らないし、喉が渇かないのは自然だ。
今の日本人は最後まで自分の人生の主人公ではなく、途中で放棄してしまっている。人任せ、家族任せ、医者任せで、非常に無残な死に方をしているのが実情だ。老人がやらなければならない役割が2つある。一つは、いろいろ不具合が出てくるが医療にあまり頼らず、上手に折り合いをつけ、年をとっての生き方、老い方を後続の者に見せること。もう一つは、自然死は非常に穏やかな死で、苦痛もなく、すやすやと寝ながら死んでいく。死にゆく姿を見せることが最後の役割だ。
日本人は死ぬことを考えない。縁起でもないと言って死を忌避している。本来、死から生(現在)を見た方が、今を充実して生きられるのだが、残念ながら死を非常に嫌っている。そのために最後まで主人公でいることができないのではないか。
それがないと、家族が非常に困る。元気なうちに、やってほしいことと嫌なことを考えて、家族と話し合っておくと家族の負担はものすごく軽くなる。
今は医療でいろんなことができる。しかし、それを受けて本人が幸せだったらいいけど「これが人間か」というような非常に悲惨な姿になることもある。いったん延命を始めるとやめられない。やめると「殺人だ」と言って騒がれる。事前に自分の意思を話し合っておくことが、家族に対する思いやりだ。
医療に対する日本人の期待感がものすごい。医療にも限界があり、年を取ったものを若返らすことはできない。マインドコントロールが行き届いていて、なかなかこれが理解できない。
医療は発達してはいるが、実はハーフウェイ・テクノロジー_で、完全なものではない。さらに、医療にはやってみないとわからないという不確実性がついて回る。「手術したら9割助かる」と医者が言っても、本当の意味で「あなたがどうなるかJは医者にはわからない。一つの目安にすぎず、実は賭けであり、命を担保にした博打のようなもの。この不確実性はどんなに医学が発達してもついて回る。
◎「老い」にはこだわらず寄り添う
「老い」にはできるだけこだわらず、寄り添うことが自然。老いるということは、昨日までできたことが今日はできなくなること。「もうこれしかできない」ではなく「まだこれだけできる」と受け取ることが大切だ。人に迷惑がかからなかったら、自分に楽な受け取り方をすればいい。ダメになった方にこだわってあがいてもどうにもならない。年をとったらどこか具合が悪いのは「正常」だ。
◎「病」にはとらわれず連れ添う
うつる病気(エボラ、肺炎、赤痢など)には完治があるが、うつらない病気(糖尿、高血圧などの生活習慣病 )には完治がないので、上手に付き合うしかない。闘病はよくない。感染症は原因になるウイルスが外から来るから撃退すれば済むが、生活習慣病は老人病。なりやすい素質や体質を先祖から受け継いでいる。
◎「健康」にあまり振り回されない
定年を過ぎると、することがないから健康にみんな関心が行く。健康寿命を伸ばそうと躍起になっているが、楽しんでやることが大事だ。健康は人生を豊かに生きるための手段であって目標ではない。年を取ったら健診なんか受けない方がいい。症状があったら病院に行くが、健診の正常値は若者の数値だから、それと比べて正常であるはずがない。
◎「世話され上手」になる
世話され上手になって生きることが大事。自分でできることは、精一杯自分でやる。自分でできないことをやってもらったら、必ずお礼を言う。もう一つは、しょうもないことで愚痴や弱音を吐かないこと。それが守れれば、場合に寄ったら、独居者でも自宅で死ぬことは可能だと思う。
◎ 「医療」は限定利用を心がける
医療にかかればなんとかなる、とマインドコントロールされているが、そんなことはない。今の医療はどんな状態でも助かればいい、 1分1秒でも長生きさせればいいというもの。とんでもない状態で生かされる可能性も高い。高度な医療を行う病院では重い障害者が生み出されている。年寄りの場合は「修繕」前より良くなることはない。
◎ 自力で食べられなくなれば「寿命」と考える
年寄りは成長段階と逆のコースをたどる。歩けなくなり、立てなくなり、座れなり、寝たきりになってオムツをする。飲み食い能力が一番最後。これがダメになったら、これはもう寿命だ。
昔はこれで、みんな納得していた。食欲は本能だから、これがなくなれば、腹は減らないし、のども乾かない。無理やり押し込む必要はない。
病院の医者は急性死しか見ていない。人間が自然にどう死んでいくかは病院の医者は知らない。ところが、自然に死ぬということは非常に穏やかだ。食べなくなるのは、腹は減らないから。
水を飲まないから脱水状態になり、血が濃く煮詰まって意識レベルが下がるのうとうと、すやすや寝る。ぼんやりとしたまどろみの中で、あの世に移行していくというのが実は死ぬという
ことだ。老人ホームに行って、 400例以上見たが、おしなべてみんな、すやすや穏やかに死んでゆく。自然に死んでゆく姿を見た家族は死ぬことを怖がらなくなる。
◎発見時、痛みのない手遅れの「がん」は放置してよい
ホスピスでも痛まない人は3割いるといわれている。しかし、がんは痛むものだと刷り込まれている。がんは長い間に遺伝子が傷つけられて年を取ったら出てくる。治療は完全に根こそぎにやらないと意味がない。方法は2つ。早く見つけて手術で切り取るか、故射線で焼き殺すかしかない。抗がん剤を使っても小さくなることはあるが、あまり意味がない。抗がん剤は猛毒だから、体にものすごい副作用があり、人体を傷つける。進行癌は痛みがなかったら触らないほうがいい。だから私も放っている。
◎死ぬときは独り、「孤独死」を恐がらない
「孤独死_」は新聞などで、悲惨なように扱われているが、死に方としては、あんないいものはない。誰にも邪魔しないからだ。ただ、孤独で寂しくて、手を差し伸べて欲しいというSOSを発した場合には、手を差し伸べないとかわいそう。これから独居死も増えてくると思うが、これも本人の覚悟と信念の問題。死亡診断書を書いてくれる医者が調達できれば、独り住いでも自分の家で死ぬことは可能だと思う。
◎ 「死を視野」に入れて生きる
いま日本人は死を嫌がって、なかなか考えようとしないが、生を充実させるためには、死の助けがいる。「甘味を増すには、塩があった方がいいJと言うのと同じことだ。死から現在を眺めるということをやった方が、残された人生をよほど充実して生きられると思う。具体的にはどうしたらいいか。できれば、できるだけ早い時期、還暦とか定年の時に、いっぺん自分の人生を振り返ってみる。自分の人生は肯定できると思う、いろいろあったけど、それほど悪い人生じゃなかったよと。肯定することは大事。
では今大事にしなければならないのは何なのか、
今後の生をどう生きるべきかを書き出し、それを毎年点検したらいい。
◎人は生きてきたように死ぬ
今日は昨日の続き。今日が昨日と全く違う今日というのはあまりない。人がこれまでどう生きてきたか、ということは最期の場面に反映される。今どういう生き方をしているか、今どう周りとかかわりを持っているか、今どういうふうに医療を利用しているかが問題3今までいい加減に生きてきた人間が最期だけはきちんとしたい、そんな虫のいい話はない。事件事故は別にして、ふつうはその人のそれまでの生き方が最期の場面に反映されるから、今の皆さんの生き方の点検、修正を死ぬまでやってもらうことが必要だ。そして、お礼とお別れの言葉が周りのかかわった人間に言えるのが、人間最期のエチケットだと思う。
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